「ミスコン潰し」フェミニストの詭弁と誤謬

ミスコン潰しの正当性を主張する以下のエントリが話題になっていた。

anond.hatelabo.jp

 

いろいろ突っ込みどころが多かったが、以下では一つのポイントに絞って反駁していく。

 

元記事の主張まとめ

 

まず上記エントリの主張は以下のような構造になっている。

  1. 美に絶対的基準などない。人それぞれ美の基準が存在してよいはずだ。
  2. ミスコンは「既存の基準」を推し進めている。よって存在してはならない。

つまり「色々な美の基準があってよい、だがミスコン審査員の基準、テメーはダメだ」ということだ。

 

なぜこのような矛盾が起きるのか?

主張1はまあ正しいと言っていいだろう。美の絶対的な審判者などそもそも存在しないことは自明である(心理学的・統計的に言えば先天的な基準も恐らく存在するだろうが)。

 

そして主張2も前半は正しい。ミスコンを開催することで、ある種の価値観が(微小ではあれ)広められる可能性は存在するだろう。

 

誤りは、「ある基準を推進している」と「よって存在してはならない」の間の暗黙の前提にある。

 

例えば「ミスコン」を「フェミニストの集会」に置き換えてみるとわかりやすい。

フェミニストの集会はフェミニズム的基準を推し進め、別のある種の基準を抑制するだろう(そして他の大部分の共存可能な基準には、何の影響も与えないだろう)。

これが果たしてフェミニストの集会を潰す理由になるだろうか?いや、ならない(反語)。

 

上の例で言いたいのは、

  • ある種の基準を推進することが、別の基準を抑制するとは必ずしも言えない。
  • 仮に抑制したとしても、直ちに悪とは言えない。

ということだ。

 

エントリでは「ミスコンは他の美の基準を抑制する」「ミスコンの基準は悪」という暗黙の前提があるため、よってミスコン潰すべしという攻撃的な結論になってしまうのである。

 

実際、エントリ内でも

ミスコンは無用で過去の価値観を補強し定義する害悪

と言っている。そもそもミスコンの基準は悪だという前提があるのだ。

 

「ミスコンは悪」という前提があれば「ミスコンは悪」という結論が導かれるのは当然である。

 

では実際にはどう考えるべきか

ミスコンはある種の美的基準を推し進めるかもしれない。

その基準に沿いたくない者は、ウィニー・ハーロウらがやっているように、自分が正しいと思う別の基準を推し進めればいい。

自分と異なる基準を攻撃しようというのは、愛国心の表現のために他国を攻撃するようなものである。

共存可能であれば、自分の価値観のために他者を攻撃する必要はない。

 

ちなみに個人的にはミス・ワールドが(私の基準で)美しいと思ったことはほとんどない。

だがもちろんそれは、ミス・ワールドが美しいと思う人々の価値観を潰そうとする理由にはならないのである。

 

追加物

何回も言うけど、他の運動や芸術などのコンテストや競技は競技自体を作ったのが人間であり、何かを行ったもの、を評価するものだから評価基準を人が作って良い。

 に至っては本当に意味が分からな過ぎてさすがに笑った。ミスコンは人間ではなく神が作りたもうたということだろうか?

結局「変えられない部分で優劣をつけられたらヤダ」という感情ありき論に過ぎないのだろう。その感情自体は否定しないが、それなら変に理論武装せず直接そういえばいいだけの話ではないか。

 

 

 

セクハラ議論はやめて、もっと重要なことについて話し合おう

前置き

世の中で騒がれるセクハラはたいていパワハラとセットになっている。

政治家の件しかり大物プロデューサーの件しかり。

 

実際、自分より下の立場の人間からセクハラめいた発言をされたとして、生活や尊厳が脅かされるような深刻な問題に発展することは稀だろう(不快な気持ちになることはあるかもしれないが)。

何ならあなたの立場を利用してセクハラを止めさせることだってできるはずだ。

 

もちろん力関係が絡まないセクハラが許されるということではないが、パワハラが絡むものと比較して深刻度が大きく異なるのは確かだろう。

 

そういう意味で、昨今のセクハラ問題の本質はむしろパワハラ(権力構造を利用した強要)の方にあると言っていい。

 

セクハラを議論の中心にすべきでない理由

まず、セクハラ議論は男女間の無駄な対立構造を生んでいる。これはSNSやネットニュースのコメント欄を見ればすぐにわかることだ。

 

被害者への中傷など見るに堪えない文言が並ぶのは、一部の男性からすれば不当なバッシングを受けている気持ちになるからだろう。

少なくとも本当に当事者意識をもってセクハラ問題を考えられる男性はそこまで多くはないはずだ。

 

それに対し、パワハラは男女関係なく受けうるものなので、より当事者意識を持ちやすい。

 

またセクハラの議論は「どこからがセクハラなの?」といった、些末で不毛な議論に行きつきがちである。

 

それに対し、権力を利用しうる状況にあったかどうかはセクハラよりも判断しやすい。セクハラは主観が大きいが、役職は客観的である。

 

例えば、自分より立場が下で、要求を拒否しづらい立場にある相手に誘いをかけたり「ジョーク」を飛ばそうと思った時点で、もうハラスメント一歩手前にいると認定することもできるだろう。

相手が断ったり逆らったりしづらいことを承知の上で、相手の権利を侵害する危険性がある言動を取っているからだ。

その危険性を顧みぬまま言動を続けていれば、告発されても仕方がない。

 

(どうしても部下を口説いたり会心ジョークを飛ばしたいのであれば、それが安全にできる関係性作りから始める必要があるわけだが、それには相手の立場や感情をおもんばかる高度なソーシャルスキルが要求される。それ故たびたび「セクハラ上司」が生じる結果となる)

 

まとめ

本来は誰しもが関係ある問題のはずなのに、誤った位置づけのせいで「女性だけの問題」と認識されてしまっているのが「セクハラ問題」「Me Tooムーブメント」の現状である。

 

相手の立場や感情を考慮しないという特徴から、セクハラ上司は往々としてパワハラ上司でもあると思われる(少なくとも良い上司である可能性は低いだろう)。

セクハラ上司を追放することは男性にとっても悪くない話のはずだ。

 

日本のセクハラ問題を本当に解決したいのであれば「パワハラ」という、より大きな枠で考えたい。